筑後吉井おひなさまめぐりの歴史

歴史を知る

筑後吉井おひなさまめぐりについて

 江戸時代、有馬藩の城下町久留米と天領日田を結ぶ豊後街道の宿場町として栄えたうきは市吉井町。筑後川に堰を築き、水を引き込み、豊かな農産物が育ち、酒造業、製麺業、精蝋などの産業が生まれ財を蓄えます。今ある白壁土蔵の家々は、明治初期までに、三度もの大火の経験から、防火対策の意味も含め建てられたものです。平成八年に国の文化庁より、「伝統的建造物群保存地区」に福岡県内で第1号の選定を受け、町並み保存に取り組んでいます。その町並みを背景に「筑後吉井おひなさまめぐり」を平成五年より始めました。
うきは市吉井町のおひなさまの大きな特徴は、宿場町いわゆる庶民のおひなさまと言える「おきあげ」と「箱雛」です。「おきあげ」とは、おひなさま、歌舞伎や浮世絵を題材に、各家々の女性が手作りしたものです。羽子板の押し絵と同じように下絵を描いて、厚紙に写し、綿をのせて、着物のはぎれ等の布地でくるみ、貼り合わせていきます。その中に細く削った竹を取り付け、当時はワラや畳のへりに挿して「箱雛」の周りを彩るように飾りました。
ここに掲載されている展示会場以外にも、商店や公共施設に飾られています。おひなさまたちに囲まれて、吉井の町並みをのんびりと、そぞろ歩きしてください。

箱 雛

hakobina

 江戸時代 お雛様は大変高価なもので、公家、武士、庄屋、商人など裕福なお宅でしか飾れませんでした。筑後地方の「箱雛」は、この地方の裕福な商人たちが 京都のお雛様をお土産として箱に入れて持ち帰り、そのまま 大切に飾ったことが始まりと言われます。もともとこの地方には人形を作る技術があったため、その後 盛んに作られることとなりました。当時は 下級武士の間でも人形作りの内職が盛んであったとか。次第に外箱にも装飾が施されるようになり、箱の前に御簾を下げ御殿を表したり、側に「おきあげ」を飾るようになりました。

おきあげ

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 筑後地方では 「箱雛」の側に押絵人形を飾る風習があり、古くより この人形を「おきあげ」と呼び 親しんできました。
江戸時代の雛人形は大変 高価なものであり、当然、そう簡単にお人形を買い揃えるわけにもいかず 、雛の周りに綺麗な「おきあげ」を沢山飾り、華やかさを添えていました。絵柄は、お雛様 . 歌舞伎を題材にしたもの. 大名行列 . 動物など 様々。
当初は武家の子女が内職で作っていましたが、明治に入り雛飾りが大衆化されてからは、一般家庭でも盛んに作られるようになりました。人形の裏面には細い竹がついており、畳や藁苞に刺して飾っていたようです。
「おきあげ」の語源は、一説によると 寝かせていたものを起こす " おこしあげ " が 訛って " おきあげ " になったとか...。なんとも面白いですね!裏面には昔の新聞が貼ってあり 修復の跡も。当時の女性達が、我が子を想い手作りしていた姿が偲ばれます。ご来場の際は ぜひ気にかけてご覧くださいね。

これまでの筑後吉井おひなさまめぐり